「世界そのもの」に対する信頼感が欠如した人たちと、そうでない人たち

フリーライターの鶴見済氏が、とても共感できる記事を書いてらしたのでシェアしてみたいと思います。

「健全さへの抵抗感、寄付の世界」

この記事に書かれているように、ひどい不運に見舞われたり、いじめや虐待などで傷つけられたりした経験を持つ人は「世界そのものに対する信頼」を失っていることが多いです。
もっと言えば、世界そのものに「恨み」を持っていることもあります。

この世の中で生きていく上で、「色々大変なこともあるけども、まあなんとかなるだろう」という漠然とした信頼感や安心感はなくてはならないものです。
本当に漠然とした感覚なのですが、これがあるのとないのとでは大違いなのです。

普通に、まっとうに清く正しく生きていればいいことがある。そんなにひどい事にはならないだろう。ひどいことをしてくる人もいないだろう。
そういった確信……。根拠なんてなくてもいいのです。そう「信じられること」が重要なのです。

そういった「世界そのものに対する信頼感」「他人に対する信頼感」、ひいてはその中で生きている「自分自身という存在」へ信頼感と安心感があるからこそ、明日も今日と同じ日が来ると信じられるし、力を抜くべき時はちゃんとリラックスもできるし、失敗を恐れず新しいことにもチャレンジしたり、人との繋がりも築くことができるのです。

しかし、世の中にはこれらの「信じる力」に亀裂が入ったまま生きている人もかなりの数います。

「世界そのもの」に対する信頼感が欠如した人たち

彼らの多くは幼少期に辛い体験をして、心の傷を負った人たちです。
もちろん、大人になってからトラウマを負う人もたくさんいます。
経済的困難に喘いでいたり、人との繋がりがなく孤立していたり、障害や病気を抱えていたりと様々です。

この世の理不尽さや不運を味わった人たちは、「まあなんとかなるだろう」という「世界そのもの」に対する信頼感や安心感が決定的に不足してる状態です。
「なんともならなかった状況」をすでに経験しているからです。

ですから、そういう経験をしてこなかった人と話が噛み合わないのは、当然と言えば当然なのです。
「健全な世界」に生きている人たちは、ある意味ではとても幸運な人で、世界に対する信頼を失わなかった人たちなのですから。

鶴見氏の言う「健全さに抵抗する人」たちは、「斜に構えすぎだよ」「考えすぎだよ」「なんでそういう後ろ向きな見方しかできないの?」と、「健全な世界の人たち」からの無理解にさらされます。
しかし、例えば過酷な虐待やいじめ、DVに悩まされて生きてきた人が、手放しで世の中や他人を信じられなくなるのは、むしろ正常な反応だといえます。

生物学的にみれば正常な反応ではありますが、今の社会ではその反応は「弱さ」や「異常さ」と捉えられることも少なくありません。
こうして両者の間の溝はますます深まり、「健全さに抵抗する人々」はますます疎外感を深めていきます。

「自分を越えた力」を信じるということ

ちなみに、心の傷を負って「世界そのものに対する信頼」を失った人々が、もう一度「信じる力」を取り戻すための概念が、依存症やアダルトチルドレンの自助グループでいわれている「ハイヤーパワー(自分を超えた大きな力)」だと私は思っています。

ハイヤーパワーとは、「自分なりの神」という意味です。

対象はなんでもかまいません。自分が信じている宗教の神でもいいですし、ご先祖様の霊でも、グループそのものでも、世界や宇宙、運命そのものでも。
(ただし、特定の人間だったり、薬やお酒、お金などの嗜癖的な対象だったりすると余計に悪化するので注意が必要ですが)。

精神科医の斉藤学氏も、ある記事でハイヤーパワーに言及しています。

ここで重要なのは、「何か大きな力、流れを信じる」という事なのだと思います。
自助グループでは、「手放して、あとは神様にお任せする」というスローガンがありますが、これは「執着やコントロール欲求を手放して大きな流れに身を委ねよう」という意味です。

ひどく傷ついた経験のある人は、「信じる力」にヒビが入った状態です。
世の中や他人、自分自身を信じることができないのです。

当人にしてみれば、そうなってしまうほどの正当な理由ももちろんあるのですが、過度にそういった信念を持っていると常に緊張や警戒心にさいなまれて心の安まる時がありませんし、人や状況をコントロールしようと異常なほど執着してしまいます。

ですから、自分なりのハイヤーパワーを信じるということは、「そんなに必死になって何もかも取り仕切ろうとしなくても、まあなんとなるだろう」という感覚を養っていく練習になると思うのです。

繋がることの大事さ

鶴見氏は、繋がることの大事さも説いています。

健全な人たちと、健全さに抵抗を持つ人たち。

嫌なら無理にそうすることもないのだが、両者がつながったほうが、利益が大きいことは想像に難くない。けれども、健全さに抵抗のある人たちが、健全な世界におもねったり、自らの考えを変えねばならないのはおかしい。そうすることなく、つながらねばならない。そのためには、いずれの側も懐を深く持ったり、共通する面を見ていったりする必要があるのだろう。

どちらが正しいということはないと思います。

日本では寄付や贈与、共有といった概念は「健全さ」の象徴のようなイメージがありますが、むしろ生きづらさを抱えている人々、社会からドロップアウトした人々にも必要なものだと思います。

「信じる力」を失った人々にこそ、こういう行為を通じて色々な人と繋がりを持った方が、生きづらさの解消に役立つはずです。

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