「そんなに緊張するなよ」と言われると余計に緊張する件について

子供の頃からよく「肩の力抜きなよ」「もっとリラックスしなよ」と周りの大人や友達から言われていた。
人見知りが激しく、いつも緊張して強張った顔つきをしていたせいだろう。

しかし、「どう力を抜けばいいのか」「リラックスすればいいのか」が、私には全然分からなかった。
それどころか、「自然体にならなきゃ、自然体にならなきゃ!」と焦れば焦るほど筋肉はこわばり、余計に緊張していく始末だ。

その様子を見て、更にもっと人から「リラックスした方がいい」と言われる。
子供の頃からよくこんな負のループが繰り返されいた。

そして、思春期の頃に気がついたときには、立派な対人恐怖症、社交不安障害(SAD)になっていた。

今だったら「はいはい、私が緊張しようとしまいとこっちの勝手でしょ。余計なお世話ですねー( ̄∇ ̄;)」とスルーできるのだが、当時の私は何気なく放たれた相手の言葉を真剣に受け止めすぎて、ものすごく苦しんでいたのだ。

「緊張するのは悪いことだ」と思っていた

「リラックスしなよ」と言ってくる人は、おそらく私がガチガチに緊張しているのが苦しそうだから、「そんなに固くならなくていいのに」というニュアンスを込めて、善意で言っているのだろう。

しかし、社交不安障害(SAD)の私に言わせれば、こういうセリフを言う人は、スイッチのON、OFFを切り替えるように緊張のコントロールができているとでもいうのだろうか?

思春期の頃、同級生がやたらみんな明るくフランクに人付き合いをしているのを見ていて、不思議でたまらなかった。
「なんでみんな緊張せずに、そんなリラックスして人付き合いができるんだろう?」と。

こちとら慣れてない人と喋ると、目は見れないし、声は震えるし、変な汗は噴き出るし、喉の奥から何かせり上がってくるような感覚に襲われるし、ものすごく大変な思いをして人付き合いをしているというのに……。

自分を責めるか、責めないかの違い

大人になって、社交不安障害(SAD)の治療に取り組みだして、しばらく経って気付いたのは「みんなそれなりに緊張している」ということだ。
今まで「自分以外の人間はみんな緊張を自在にコントロールできていて、リラックスしている」と信じ込んでいたのだが、ふと冷静に周りを見渡してみると、それなりにみんな緊張する局面では強張った顔つきをしているし、キョドっている。

では、何が私と違うのかというと、ただみんな「緊張している自分を責めてない」ということに気付いたのだ。
緊張している事自体にコンプレックスも抱いていないようだった。

神経症を患ってない人からすれば当たり前のことなのかもしれないが、これは自分の中で大きな発見だった。

少なくとも、自分は子供の頃からものすごく「緊張するのは悪いことだ」「格好悪いことだ」と思っていた。
子供の頃に、それが原因でいじめに遭ったせいだろう。

緊張して、うまく喋れなかったり、自然体に振る舞えないと笑われる、バカにされる、という恐怖がいつもあった

しかし、「緊張してはいけない」と思えば思うほど、自分の身体は意思とは関係なしに緊張するので、いつも「俺はどうしようもないダメな奴だ」「人付き合い一つ、スマートにこなすことができない」などと自分を責めていた。

だから自分のことが大嫌いだったし、思い通りにならない自分の身体を忌み嫌っていた。
そういった背景から、緊張をコントロールできるベンゾジアゼピン系薬物(抗不安薬・睡眠薬)は自分にとって救世主だったし、だからこそ薬がやめられなくなっていったのだと思う。

ベンゾジアゼピン系薬物(抗不安薬・睡眠薬)の離脱症状と渇望期について

2017年3月16日

「こうあるべき」という思い込み、スキーマ

さて、こういった「緊張するのが悪いことだ」などという個人の持っている信念、物事の捉え方を心理学では「スキーマ」という。

「スキーマ」は人間なら誰でも持っているものだが、「こうあるべき」「こうあらねばならない」という認識・常識・思い込みが強すぎると、人間は往々にして苦しむことになる。
ひどくなれば、それがうつ病や依存症、精神疾患の原因にもなり得る。
例えば、

「家族とはこういうもの、家族はこうあるべき…」
「親とはこういうもの、子供とはこういうもの、夫はこうあるべき、妻はこうあるべき…」

「学校はこういうもの、会社はこうあるべき…」
「社会人になったらこうあるべき、男なら(女なら)こうあるべき…」

というものだ。
それらは全て、自らが持つ強いスキーマ(認識・常識・思い込み)にしか過ぎない。

自らのスキーマによって苦しんでいるのなら、まずそれを客観視し、徐々に手放していく事が必要となる。

「明るく、自然体で話さなければいけない」という思い込み

認知行動療法で、自分のスキーマに取り組む中で、私は「スマートに、明るく、自然体でコミュニケーションをとらなければいけない」という思い込みが異様に強く、そのルールに囚われていたことに気付いた。

別にそれが無理なくできるなら大いに結構なことなんだけど、ほとんどの場合現実にはそれができないので、いつも自分を責め、苦しんでいた。

自分の中で、コミュニケーションのハードルをものすごく高いところに設定していたので(盛り上げなければいけない、沈黙があってはいけない、楽しませなければいけない)、人と会った後はいつもクタクタに疲れていたし、そのくせいつも自分に落第点を出していた。
だから、人付き合い自体を恐怖するようになっていたのだ。

しかし、人間関係の訓練をする中で、ある時「あ、別に上手く喋らなくてもいいし、自然体でなくてもいいんだ」と腑に落ちた時があった。
その時から、途端に世界が開けたような気がした。

人から「暗い」という烙印を押されて、嫌われるのが何より怖かったのだけれど、別にそう思う人には思わしておけばいいじゃないか。
別にいつもリラックスしてコミュニケーションをとらなくても、フィーリングが合う人とは関係が続いていくし、合わない人とは続かない。それだけの事なんだと。
結局、敵は自分自身だったのだ。
自分自身が勝手にルールを作り上げ、その枠内で自分を縛り上げていた。
人と話す機会があるたびに、「ほらまた失敗した」「ほんとにダメだな、お前は」と自分自身に半自動的に囁いているのだから、人付き合いが嫌になって当然だし、生きづらさを感じていて当然だ。

森田療法と「生活の発見会」

このように「かくあるべし」という強力な思い込みは、その人の人生そのものに大きな影響を及ぼしているものだ。

だから最近の私は、もっぱらマインドフルネスなどを使って、自分を苦しめるスキーマを積極的に手放すようにしている。

~マインドフルネス~脳の疲れが取れる最高の休息法

2017年10月27日

不安や緊張を抑えつけるのではなく、「そこに居ていいよ」「それでOKだよ」と言ってあげる。
感情に居場所を作ってあげ、自分を責める言葉を使わないようにする。

人間の感情というものは、コントロールしようとすればするほど歪になっていくものだ。

その場はなんとか抑え込めても、いつか無理がきて爆発してしまう。
爆発しないまでも、私のように嗜癖(アディクション)やうつ病などという形で外に表れる。

だから、できるだけ感情はコントロールしようとせず、あるがままを感じてあげる。そうすれば、時間が経てばどんな荒ぶった感情も必ず下がってくる。

感情をあるがままに感じてあげて、不安障害や対人恐怖の回復を目指すのは、精神科医の森田正馬氏が開発した「森田療法」も有名である。

対人恐怖症や強迫神経症の当事者が集う「生活の発見会」は、森田療法を実践する自助グループとして有名だ。

このグループが出版している「悩むあなたのままでいい―森田理論による「あるがまま」の生き方」という本は、社交不安障害のみならず、あらゆる神経症に共通する「強迫観念なコントロール欲求」にどう対処していくのか?、という点において、森田療法について分かりやすく書いているのでオススメだ。

森田療法においても、やはり「こんな感情は持っちゃいけない!」「こんなこと思っちゃいけない!」と思えば思うほど症状が悪化していく、と書いてある。

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